スキンケア&薬草おたくが藍を配合した洗顔石鹸を作り始め、会社まで立ち上げて奮闘中。

 

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Posted by あしたさぬき.JP at

2012年05月06日

ヒロシゲブルーの正体4

ドイツで発見されてから150年後のパリ万国博覧会で、日本の浮世絵の絵具として

その色が再び認知されたベロ藍。

この色は現在では通常プルシアンブルーと呼ばれています。

あまりに美しい透明感と艶をたたえたその色。

特に印象深くこの色を使っている名手の名前が冠となり「ヒロシゲブルー」と

呼ばれるようになります。



空と水の色が澄んで、鮮やか。これぞヒロシゲブルー。

大胆でありながら調和のとれた構図を、目を引き付けるほどの鮮やかな藍色で

粋に仕上げる。



けれどこのベロ藍は、ドイツ生まれです。

ヨーロッパの人には珍しくもない顔料だったはずなのに、なぜ「神秘の国日本」を

象徴する色に見えたのでしょうか。



秘密はとても些細な文化の違いにありました。

ヨーロッパの絵画は「油」の文化。

顔料を油にとき、布のキャンバスの上に盛って行くという描き方です。

絵の具には固着剤として膠なども含まれ、そういったものが酸化して

若干の色彩の変化を促してしまうことは特に珍しいことではありませんでした。



ひるがえって日本の絵画は「水」の文化。

顔料を水にとき、肉筆や版画で紙に色素をしみこませる描き方です。

水以外の不純物を多く含まず、顔料そのものの色合いが紙に再現されていました。


水にといた青い顔料で水を描く。

こんな日本では当たり前の技法が、ヨーロッパでは革新的なことだったのです。



私の個人的な想いとして、「水」が最終的にこの色を決定づけたことに

とても不思議な縁を感じます。

植物の藍はその栽培において豊富な「水」を必要とします。

そして染色作業にも多量の「水」が必要です。

水と深くかかわることでかなえられてきた色が、合成の顔料となってもやはり

同じ道をたどるということに、深い縁を感じるのです。



北斎も広重も、絵の完成度には厳しい目標を自ら掲げた人たちでした。

だから、「コストダウンのために合成顔料を使った」という現代的な(笑)憶測で

ベロ藍の採用を語ることはできないと考えます。



身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代。

来日したイギリス人が「青があふれている国」と書き記した手紙が今でも残っています。

後の小泉八雲のものです。

そんな生活をしていた絵師が求める「青色」とは、慣れ親しんできた藍染めの

さまざまな藍色のバリエーションだったことでしょう。



藍染めの布では鮮やかな色合いが表現されるのに、顔料の藍となると少し

色合いが異なります。

「鮮やか」と言うよりは「重厚な」もしくは「しっとりと落ち着いた」青色になり、

布に染まっている鮮やかな色合いとは少し趣が異なります。



おそらく、顔料そのものに含まれる植物由来の灰汁などが特有の濁りとなって

いたのかもしれません。

布に染まっているものなら、水に通して灰汁を洗い流して色の鮮やかさを

演出することはできるのですが、紙となるとそうするわけにもいきません。



藍の顔料で青い濃淡を表現しようと、濃い色の部分を塗り重ねると、

どうしても重く黒っぽい色になってしまい、慣れ親しんできた理想の藍色を

表現することが困難だったのです。



絵の表現の限界に挑戦し続けた北斎がベロ藍に飛びついたのは、自らの求めていた

「透明感」のある色彩が可能となったから。

広重がさらにこの色を広く採用したのは、江戸の粋を感じたままに表現するために

必要な色だったから。



自然な藍色に慣れ親しんできた絵師の飽くなき探求心と渇望を解決させたのが

皮肉なことに、合成顔料のこのベロ藍だったのです。



ヒロシゲブルーは決して奇をてらった唐突な色ではありません。

日本の美意識をありのままに表現するために到達した、異国の技術との

コラボレーション。

それが、ヒロシゲブルーの正体ではないでしょうか。




突如始まった『ヒロシゲブルーの正体』、今はこれでいったんのお開きにしたいと存じます。

おつきあいくださってありがとうございました☆







  


Posted by ばんどーみき at 23:53Comments(2)浮世絵と藍

2012年05月05日

ヒロシゲブルーの正体3

ベロ藍が江戸で流通するようになる決定打となった葛飾北斎の『富嶽三十六景』が

完結したのは北斎が73歳になる年の1833年でした。

これと同じ年に広重が発表したのが『東海道五十三次』。完成は翌年の1834年と

されています。

北斎のベロ藍に影響をうけた広重は、この東海道五十三次にベロ藍を採用しています。

このとき、広重は37歳。北斎との年齢がちょうどダブルスコアですね。

この二つの作品によって、ベロ藍が優秀な画材として絵師に認知されるようになり、

浮世絵の業界においては「風景画」が一つのジャンルとして確立されることになりました。



このころ、今で言う「旅行」が盛んになりかけていたのも、こうした風景画が

受け入れられるようになった理由の一つであったようです。

「マップル」などの旅行ガイドブックみたいな感じだったのかもしれませんね。



ベロ藍が流通する前に使われていた青色顔料は、植物の藍と露草で、特に露草は

退色が速いことが難点でした。

鉱物由来の顔料では群青と呼ばれる銅が地中で化学変化を起こして青く発色したものが

存在していましたが、こちらはたったの60gが米一俵と同じ値段という高価なものだったため

浮世絵に使用されることはめったにありませんでした。

ですから、合成の色鮮やかな青い顔料がどれほど重宝されたか、容易に想像できますよね。



そして、江戸時代が終わりを告げる直前の1867年の4月にパリで開催された

万国博覧会では、最後の将軍徳川慶喜の弟にあたる徳川昭武が使節団団長を

務める日本人と日本の工芸品や絵画が初出展されました。



当時の万博会場の様子です。(Wikipadiaより参照)


このとき、広重が生きていればちょうど70歳。

残念ながら、1858年にコレラで亡くなっています。

北斎は90歳になるまで生きていたのになぁ…惜しいですね…。



1854年に開国して13年後の初の万国博覧会展示。

展示されたのは浮世絵などの絵画や、武具に書物、日用品などだったそうです。

ヨーロッパでは神秘に満ちた国「日本」のパビリオンが熱狂的に迎え入れられ、

おみやげものの扇子が飛ぶように売れたのだそうです。



浮世絵がヨーロッパの人々に驚きを与えたポイントは「大胆な構図」と「大胆な配色」

そして「美しい藍色」でした。



でも、ちょっと待って。

ベロ藍は、1700年代にヨーロッパのドイツで発見された合成顔料です。

ならばヨーロッパの人にとって珍しい色ではなかったはずではないのでしょうか?

どうしてそこまでヨーロッパの人の目を奪うほど魅力的な色と言われたのでしょうか…?



その簡単な秘密について、次回お話しいたします。





  


Posted by ばんどーみき at 23:47Comments(0)浮世絵と藍

2012年05月04日

ヒロシゲブルーの正体2

ヒロシゲブルーと呼ばれた浮世絵の藍色の鮮やかさは、ベロ藍という舶来の

合成顔料でできていました。

この顔料は、ドイツ製です。

どうやってできたかという話は広重が生まれる93年前までさかのぼることに

なります。



1704年~1710年のドイツのベルリンで、赤い顔料を作る研究をしていた

塗料職人のディースバッハという人と、錬金術師のデイツペルという人が、

たまたま青い顔料の作り方を発見しました。

赤い顔料が作りたかったのにね・・・


これがベロ藍と呼ばれたのは、「ベルリン藍」がなまった(?)ためだそうです。

このベロ藍が日本にやってきた最初の記録は1807年、作り方が発見されてから

約100年後ですね。

これは広重が20歳になる年ですが、この顔料が江戸で出回るようになるまで、

更にあと20年を要します。



昔の「物」や「情報」の伝達速度が今とは比べ物にならないくらいにゆっくりであったことが

うかがえますね。

気が遠くなりそうです…



江戸に持ち込まれたベロ藍を浮世絵の絵具として一躍有名にしたのは、広重より

37歳年上の葛飾北斎です。

もう、日本人で知らない人はいない『富嶽三十六景』こそが、ベロ藍の色合いを

世に知らしめた作品群でした。



北斎は、このベロ藍を水に溶いて、これまでの植物顔料との色の違いをはっきりと

認識しました。

「透明感」を演出できる青色。

この表現力が、北斎の創作意欲をかきたてて、『富嶽三十六景』が生まれました。



植物顔料の藍とベロ藍を巧みに使い分けて描かれた鮮やかな青い色。

何より人の目を引いたのが、その輪郭の色でした。

それまで、輪郭は「黒」しか使われなかったところに、北斎はベロ藍を用い、

絵の印象の全体を明るく鮮やかにするように演出したのです。





ヒロシゲブルーの話なのに、なかなか広重の話になりませんね(笑)

なんだか私の連載物はいつもこんな感じになってしまうな…

もう少し続きますので、お付き合いくだされば嬉しいです☆





  


Posted by ばんどーみき at 23:37Comments(0)浮世絵と藍

2012年05月02日

広重ブルーの正体



歌川広重の錦絵(浮世絵)といえば、東海道五十三次が有名ですね。

それ以外の土地を描いた作品群の「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」が

木版画の大作として残されています。

目録1枚を含む全70枚というボリュームです。



その風景の55番目に、画像の「阿波 鳴門の風波」があります。

躍動感のある面白い絵ですね…!!



広重といえば、海外ではその青色の美しさが高く評価され「ヒロシゲブルー」と

呼ばれるほど、青色・藍色の使い方が評判となっていたことは有名な話です。



このヒロシゲブルー、じつは日本製の色ではありません。

広重の時代に日本で流通するようになった「ベロ藍」と呼ばれるドイツでたまたま

発明された合成の顔料がその正体です。



ジャパン・ブルーといえば藍。

浮世絵といえば、北斎や広重。

けれど彼らは100%本物の藍を使用していたわけではありませんでした。

ベロ藍が彼らの手に渡らなければ、今知られている浮世絵の名作の数々は

存在すらしていなかったかもしれません。



その経緯について、少しお話していこうと思います。

ちょっぴりお付き合いください。



ちなみに、広重ブルー誕生に一役買った(?)藍の墨「藍晶」、今年入荷分が

残りわずかとなりました。

http://aiironet.com/SHOP/ai-sumi-01.html



  


Posted by ばんどーみき at 23:44Comments(0)浮世絵と藍